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弦楽四重奏曲第6番 (バルトーク) : ウィキペディア日本語版
弦楽四重奏曲第6番 (バルトーク)[げんがくしじゅうそうきょくだい6ばん]

バルトーク弦楽四重奏曲第6番(げんがくしじゅうそうきょくだい6ばん)Sz.114は、1939年に作曲されたバルトーク最後の弦楽四重奏曲である。
各楽章の冒頭はいずれもメスト(悲しげに)と記された共通の主題で開始され、作品全体の統一が図られてもいる。また、この主題は楽章を追うごとに拡大し、第4楽章ではついに楽章全体を覆う。こうした構成は、この当時のヨーロッパを覆っていた戦争へ向かう不可避な雰囲気を象徴している。一方で弦楽四重奏曲第4番第5番でなされた5楽章で構成される回文構造は採用されず、4楽章形式が採られており、古典的な印象を与えている。
==作曲の経緯==
1939年3月23日、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番の初演がアムステルダムで行われた。この時の独奏者ゾルターン・セーケイは、ハンガリー弦楽四重奏団を組織しており、この初演の機会に新しい弦楽四重奏曲の作曲をバルトークに依頼した。ハンガリー弦楽四重奏団はすでに、バルトークの弦楽四重奏曲第5番のヨーロッパ初演を成功させており、その演奏能力に不安はなかった。
1938年ナチス・ドイツによるオーストリア併合やチェコスロヴァキアへの侵攻で、ハンガリーでは民俗音楽の研究の継続が出来なくなることを見越したバルトークは、セーケイの依頼を受けた頃にはアフメト・アドナン・サイグンを介してアンカラへの移住を真剣に検討していたり、また彼や協力者達が集めたハンガリー民謡やルーマニア民謡の分析作業に没頭するなど多忙だった。しかしバルトークは年少の友人の求めを承諾した。
この年の8月、バルトークは指揮者パウル・ザッハーの招きで、数年前から訪れていたザッハーの所有するスイスグリュイエール地方の山小屋に夏休みのため訪れていたが、そこで弦楽のためのディヴェルティメントの作曲直後に作曲を開始した。しかしこの弦楽四重奏曲に着手した頃にはハンガリーに呼び戻された。結局、この作品が完成したのは第2次世界大戦開戦後の11月、ブダペストに移ってからであった。そしてこの完成の翌月には、ハンガリーから離れることを拒み続けていた母親が死去する。
初演の機会がないままバルトークは翌年10月にアメリカへ移住し、この曲の楽譜も彼と共にアメリカへと渡った。一方、委嘱者のセーケイはドイツ占領下のオランダにいて、バルトークとの連絡は途絶してしまった。結局、この作品の初演は弦楽四重奏曲第5番の初演を行ったコーリッシュ弦楽四重奏団に委ねられ、この四重奏団に献呈された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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